私の師匠




 今年の6月28日、私の師匠が亡くなりました。 享年79歳でした。 四十九日の法要も過ぎて、やがて百ヶ日(卒哭忌)を迎えようとしています。



 脳梗塞による7年近いリハビリ生活でした。 ここ何年かは右手が少し動くのみで、こちらが話すことははっきりと伝わるものの、しかし本人は何も喋れない辛い日々でした。 亡くなる前日、私が病院に顔を出してみると、その日はいつもより反応が無いなぁというだけで、特に嫌な感じはしませんでした。 しかし翌日、病院の先生から体調が急変したとの連絡を突然に受け、慌てて駆けつけてみると、呼吸はしているものの、すでに意識が無い状態でした。 そして真夜中になり、奥様と二人でベッドの側でうとうとと横になっていたときのことです。 奥様が何かに気づいて、急にビクッと起きだしました。 不安になって二人で師匠の顔を覗いてみると、その前後くらいに息が途絶えました。 あっという間の出来事でした。

 葬儀が終わり、火葬して骨だけになった師匠と対面したときのことです。 左ひざの箇所に、小さな金具が焼け残っているのを見つけました。 幼少時の関節炎手術で埋め込まれたものです。 この膝が原因で師匠は竹細工の道に入ったのかと、自分が今ここでカゴを編めているのもこれと決して無縁ではないと思い、私は親族の方に無理を言って、70年以上彼の体内にあったこの金具を、形見として頂きました。


 
 師匠は声を荒げたことなど一度も無い、穏やかな人でした。 そしてまた、無口で照れ屋でもありました。 一緒に竹細工教室に出かけたときのことです。 参加者の前で竹割りを実演する際、「おっど(俺)はしゃべりが下手ですけん、説明は弟子に任せますなぁ」とボソッとつぶやいたら、あとはもう一言も喋らず、下を向いてさっさと竹を割り始めます。 途中、私が一生懸命に各作業の工程で技のすごさを説明しようとするも、そんなのは全くお構い無し。 とにかく早く終えたいという感じで、でもそんなはにかんだ様子が、私はとても好きでした。

 そして師匠は、気持ちの温かい人でもありました。 カゴがたくさん売れたときなど、「母ちゃんには内緒だぞ」と、こそっと小遣い銭をよく私に握らせてくれました。 遠慮してお金を戻そうとする私を無視して、「よか、取っとけ」と、そう言い放ちながら、松葉杖片手にくるっと背を向けて立ち去る後ろ姿を、私は今でもはっきりと覚えています。



 下は、私の弟子入り時代に撮った写真です。 みそこし(小さ目のザル)の縁巻きをしています。 一緒に仕事しているところを写したものはよく探してもこれのみ、最初で最後の一枚となりました。






 師匠は、決して弱音を吐かない強い人でした。 彼は若くして、親兄弟全員と別れています。 彼が6歳の頃には、すでに母親と3人の兄妹が結核などで亡くなっていました。 8歳の時には姉が、11歳の時には父親が、そして翌年12歳になった時は、彼の面倒を最後まで見ていた祖母が亡くなりました。 そうして家族全員を亡くした師匠は、丁度終戦前の昭和20年、僅か13歳にして、自分の腕一本で生きていくべく地元の竹細工職人に弟子入りします。 その後、昭和30年代初頭まで、「田舎まわり」と言って、農村・漁村の一軒一軒を泊まり歩く生活をして腕を鍛え上げました。






 上写真は、私が師匠から独立する直前に撮ったものです。 カッコいいなぁと私がいつも憧れていた、師匠の仕事姿です。 こんな迫力あるカゴ屋の生き様を持った職人は、もう今の日本から消えつつあります。 師匠、長いリハビリ生活、本当にお疲れ様でした。 どうか安らかに眠ってください。